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歌舞伎役者が舞台でそばを食う。
 先代の猿之助が「弥次喜多」で、二階の屋根に身を乗り出して、下で喜多さんの差し出すそばを食う。じつにおいしそうだった。これを見たときからそばを食う役者に関心をもった。

 「直侍」が雪の畦道から出てくる。そば屋がある。誰かいるかと思ってのぞいてから、すっと入る。火をもらって股火をする。
 浅草から入谷田圃まで、一里ばかり。これから女に会いにゆく。雪にまみれて歩いてきた。その寒さがゾクゾクッとくる。すぐに、そばがくる。さもさもうまそうに食う。酒を呑む。盃にチョイと浮いているゴミかなんぞをつまみとる。
 先代の羽左衛門で見た。

 幕あきで、岡ッ引きがそばを食う。うまそうに見えない。じつは、あとで「直侍」がうまそうに食う。これが演出上のコントラスト。中学生の私の胸にもこの理屈がストンと落ちた。

 翻訳を勉強している女の子たちに教えた小説のコントラストも、じつはおなじ。

 いまは亡き猿之助も、羽左衛門も、まだくっきりと眼に残っている。その頃の延若、福助、蓑助などもおぼろげながら頭にうかんでくる。
 もう、この人たちを見た人もほとんどいないだろう。