(つづき)
戦後すぐに「近代文学」の人々と知りあった。1948年春までは、毎週のように「近代文学」の事務所に顔を出していたが、「『近代文学』の編集を手伝っていた」こともなかった。1948年、肺浸潤が進行して、寝込むことが多くなっていた。原稿を書いても発表できる場所がなく、前途に不安をおぼえていた。(安部 公房といっしょに「世紀の会」を考えたのも、とにかく原稿が発表できる場所を作ろう、というのが動機だった。)
私が富士 正晴に出会ったのは、1948年か、49年か、じつは思い出せない。1948年ではなかったはずである。後年、「1948年夏まで」と題して、当時の私にあてた先輩たちの手紙を「近代文学」(終刊号)に発表した。その当時(1948年夏まで)のことを思い出しても、富士 正晴とは面識がなかったと思う。
うかつな話だが、当時、私は「VIKING」という同人雑誌の存在さえも知らなかった。野間 宏とは親しくなっていたから、富士 正晴を紹介してくれたのが野間 宏だったことは間違いない。
当時「近代文学」の編集を手伝っていたのは、もっとも初期に、神谷さんという若い女性だった。(後年、画家、フランス人形の研究家として知られる。)彼女が結婚したあとで、村井さんという女性が入り、さらに、中村 真一郎の遠縁の松下さんという女性が加わった。(後年、作家の三輪 秀彦夫人)。
1948年春あたりから、宮田君(後年、児童書の翻訳、ユニ・エージェンシー)が、実務にたずさわり、やや遅れて、平田 次三郎の紹介で原 通久が入った。
原は作家志望だった。
中尾さんのエッセイで、50年代(おそらく1954年)に、「VIKING」の木内 孝さんが「近代文学」の編集をなさっていたというが、私は木内さんを存じあげない。「俳優座」養成所の講師になったため、「近代文学」の人々から離れて、芝居の世界にのめり込んでいたからである。
(つづく)