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 しばらくぶりにCDを聴いた。
 去年からの私はしばらく音楽から離れていた。別に深い理由があってのことではない。ただ、親しい友人がつぎつぎに亡くなって、自分だけの喪に服していたので音楽を聴くことがなかった。

 マリア・グレギナ。
 私は、リューバ・カザルノフスカヤのファンなのだが、リューバ以後のオペラ歌手としてはマリア・グレギナにもっとも期待していた。
 サントリー・ホールのコンサートも聞いている。その後、世界的な名声を博していたマリアを実際に見たのは、98年に新国立劇場、『アイーダ』だった。

 久しぶりに聴いたマリアは、オペラではなく、グリンカ、ラフマニノフ、チャイコフスキーの歌曲。

 久しぶりにロシアの曲を聞いて感動した。
 私はロシア語を知らないのだが、ルインディンの詩句、

   きみといっしょにいて
   黙って きみのバラ色の瞳に
   心を沈めることは なんと楽しいことか

 あるいは、

   ぼくはきみを見つめるのが好き
   その微笑には なんと多くのなぐさめが
   そのしぐさには なんと多くの
   優しさが あふれていることか

 といったことばが、マリアの声になったとき、私は、ある夏の日のことを思い出した。
 ある画家のアトリエを訪れたのだが、私の住んでいる千葉からは遠いので、前の晩、ある温泉に泊まって、翌朝、田舎の鉄道に乗って、やっとたどり着いたのだった。

 マリア・グレギナの歌う、プーシュキンの「私はあのすばらしいいっ時をおぼえている」を聞きながら、私はまたしても、はげしく心を動かされた。

   私はあのすばらしいいっ時をおぼえている
   私の前にきみは姿をあらわした
   たまゆらの まぼろしのように
   きよらかな 美の化身のように

 生涯、もっとも幸福だった夏の日。・・