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 作曲家の武満 徹が亡くなったとき、小さなエピソードを思い出した。
 武満 徹の処女作は「二つのレント」というピアノ曲だった。これが発表されたとき、音楽評論家の山根 銀二が、これは音楽ではない、音楽以前のもの、と批評した。
 この批評を読んだ武満 徹は、映画館に入って暗がりにまぎれて泣いたという。

 後年、指揮者の岩城 宏之がこれにふれている。

   僕は山根銀二さんの批評を軽蔑しながら読んだものですが、しかし、ある意味では偉いと思うんです。『二つのレント』はいま聴くと斬新でもコンテンポラリーでもないんだけれど、山根銀二の感性ではこんなのは音楽ではないというふうに聞こえたわけです。それを正直に書いた批評家がいたということは、ある意味で<素晴らしいこと>だと思います。
   いまの批評家だって、新しい音楽を一度聴いたくらいでは、本当は何が何だかわからないはずなんです。でも何か書かなければならないので、わけのわからないことをくどくどと書いて、わかったような嘘をつくという例がとても多い。それに比べれば、何だこんなものは音楽なんていえない、と書くほうがずっと勇気があります。そうした批評家がもっと出てもいいと、僕は思っています。

 ここに、岩城 宏之の痛烈なアイロニーを見てもいい。実作者と批評家の、宿命的な介離(アンコンパティビリテ)を見てもいい。
 ある批評家には、しばらくすれば「斬新でもコンテンポラリーでも」なくなるような作品に対する本能的な警戒が働く。そういう例も少なくない。
 私も「それを正直に書いた批評家がいたということは、ある意味で<素晴らしいこと>だと」思うけれど、私としては逆に、それほどの権威のある批評家が存在するだろうか、という疑問が先に立つ。

 批評など「馬のシッポにたかるハエ」のようなものだと見たほうがいい。
 ただし、ハエのなかには、ツェツェバエのような危険なヤツもいる。