(つづき)
ミケランジェロ・アントニオーニが亡くなった。ベルイマンは、スウェーデン南部のフェラ島の別そうで亡くなったが、おなじ日にミケランジェロ・アントニオーニがローマで亡くなっている。94歳。
フェラーラ出身。少し強引な類推だが、ジョルジョ・バッサーニを読んでいて、なんとなくアントニオーニを思い出したことがある。むろん、ベルイマンを見ていてスティ・ダーゲルマンを思い出す程度の連想に過ぎないのだが。
ベルイマンが「処女の泉」を撮っていたとき、アントニオーニが「情事」(60年)を撮っていたと思うと、私の内部に、すぐにあざやかな対比がうかびあがってくる。
アントニオーニもほとんど全部見たと思う。
しかし、彼の映画を高く評価しながら、なぜか惹かれなかった。「欲望」(66年)などは傑作と見ていいけれど、彼の思想が私に似あうか、または、彼の思想を生きることができるか、と考えたとき、私はいつも違和感を覚えてしまうのだった。(フェリーニ、パゾリーニに対しては、そうした違和感はなかった。)
逆にいえば、私は、いつもアントニオーニ的なものを破壊するか、さもなければ放棄してしまうようだった。だから、彼の映画にあらわれる現代人の孤独感といったものに、私の内面はあまり照応しない、あるいは共鳴しないのだった。
彼の映画に出てくるモニカ・ヴィッテイという女優も好きになれなかった。
しかし、イングマール・ベルイマンと、たまたまおなじ日にミケランジェロ・アントニオーニが鬼籍に入ったことは、私を驚かせた。「奇しくも同じ日に」などとはいわない。たまたま偶然にこの世を去ったというだけのことだろう。
それでも、パゾリーニ、ヴィスコンテイ、フェリーニ、ズルリーニ、ザヴァッテイとつづく葬列に、ついにミケランジェロ・アントニオーニが加わった、という思いがある。
ベルイマンと、アントニオーニの死は、20世紀の映画芸術の終焉を象徴しているような気がする。
われながら平凡な感想だが。