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 戦争が末期的な状況になっている、誰もがそう思っていながら、口に出すことがなかった。

 長年、外国の商社ではたらいていた父の昌夫は、戦時中は「石油公団」に配属されて、戦局が悪化してからは、軍の上陸用舟艇のエンジン部門の技術者になっていた。帰宅時間は私より遅かった。
 私の場合は、工場は定時に終わっても私鉄をいくつも乗り換えるので、どうしても8時過ぎになる。帰宅しても、灯下管制で本を読むこともできなかった。それに、私には早く帰りたくない理由があった。

 いくら罹災者どうしであっても、二十歳ぐらいの娘とおなじ部屋で寝るというのは息苦しかった。お互いにまったくことばをかわさなかったが、若い娘の肉体がすぐ近くにあるというだけで、私は胸苦しくなるのだった。
 よそめには、無一物の家族が必死に寄りそって暮らしているように見えたかも知れないが、警戒警報が解除されるまで、外に出ていると、いつのまにきたのか、娘さんが私のとなりに立っていた。横浜あたりの空が赤くなっている。
 娘が黙って、私にしがみついてきた。からだのふるえがとまらなくなっている。
 私は、ふるえている娘さんに腕をまわして、黙って赤い空を見つめていた。
 その晩、父がなかなか帰ってこなかった。

 夜明け前に父が疲れきってもどってきたが、その娘さんが起きてきて、父を抱きかかえるようにして部屋につれていった。父は空襲で途中の駅で下ろされ、乗り換えの駅まで数時間かけて歩いたらしい。誰も口をきかなかった。まるで、芝居のだんまりのようだった。私は父のとなりに倒れるようにして眠った。
 私が眼をさましたとき、いつものように娘さんは出勤したあとだった。

 父の昌夫も私もひどい栄養失調だった。昌夫はげっそり痩せてきた。私はいつも飢えていた。父もおなじだったはずだが、そのことはお互いにふれなかった。
 闇で食料を買うにしても、職場ではどうにもならない。田舎に買い出しに行きたくても、工場を休むこともできない。
 戦争末期のあわれで、悲惨な日々。

 7月、私の工場(当時、皇国5974工場と呼ばれていた三菱石油川崎工場)は、爆撃を受けて壊滅した。このとき、九州の小学校を卒業してすぐに集団で徴用されてきた少年工が多数爆死、焼死した。
 私は、3月の大空襲でやられ、5月に渋谷で、6月に横浜で、7月に川崎で、空爆、機銃掃射をうけたが、なんとか生きのびてきた。私程度の経験はめずらしくもないだろう。
 だが、私はあまりにも多くの死を見てきた。そして、いつも飢えていた世代なのだ。