夕涼み。
路地に縁台を出して、浴衣の胸もとに団扇で風を送る。銭湯帰りに、酒屋の店先で、一合枡にたっぷり注いだ配給の酒をキュッとあおる。空襲がひどくなるまでは、そんな姿をよく見かけた。
夕すずみ よくぞ男に生まれけり
この句が其角の作ということは忘れられている。
其角の句は、「洒落ふう」とよばれる、通俗的なものが多い。同時代の評判記、「花見草」は、其角を花魁の太夫に見立てて、「松尾屋の内にて第一の太夫也」という。
琴、三味線、小唄、どれも特別に習ったこともないけれど、生まれつき器用な「品」があって、小袖の模様、ヘアスタイルまで自分で工夫してしまうほどの「いやなはなし」が身についている。「国々にても恋ひわたるは此の君也」という。つまり、一度はこの花魁と寝たり、見たこともないのにこの花魁にあこがれる男は各地にいる、という。
おなじ芭蕉の門下、許六は、芭蕉と自分の作風は「俳諧をすき出る時、閑寂して山林にこもる心地するを」よろこぶのだが、其角の句は「伊達風流にして、作意のはたらき面白き物とすき出たる相違」がある、と批評している。「閑寂」は、わび、さびのことだろう。其角の句は、わび、さびよりも、発想のおもしろさを見るべきだという。
其角の句は、無学な私にはよくわからない。そのかわり、其角の作なのに、
これはこれはとばかりちるも 桜かな
むろん、貞室の「これはこれはとばかり花の吉野山」のパロディー。
雨蛙 芭蕉にのりて そよぎけり
師の名句「かわず飛び込む水の音」を意識して、芭蕉門下の自分のありがたさを詠んだか、それともおのれのつたなさを卑下してみせたか。
京町のねこ かよひけり揚屋町
もともと「伊達風流」なのだ。通俗でどこがわるいのか。其角はそういっているような気がする。「鐘一つ売れぬ日はなし 江戸の春」も、私たちは其角の作と知らない。まさか、こんな句が後世に残るとは其角も想像してはいなかったろう。
そういう其角が私は好きなのだ。