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 子どものころから、おっちょこちょい。

 「耕ちゃん、お使いに行っとくれ」
 母の声がする。
 「はーい」
 つぎの瞬間、学校帰りに脱ぎすてたズックをつっかけて、外に出ている。二、三歩あるきはじめると、母の声が追ってくる。
 「どこへ行くの?」
 「だって、お使いに行くんだろ」
 「用事も聞かないで飛び出すなんて、そそっかしい」
 「ああ、そうか」

 じつは、お使いの帰りに駄菓子屋に寄って、アメダマ、ラムネ、オセンベなどを買うことだけは忘れていない。トシケという子ども相手のクジがあって、うまく当たればアンコ玉がもらえる。
 はじめから駄菓子屋に駆け込む寸法なので、お使いを頼まれるのがいやではなかった。
 「ほんとに、おっちょこちょいだねえ、おまえって子は」
 こんなことはしょっちゅうだった。

 小学校の帰り、友だちから借りた本に夢中になって、ときどき電信柱に頭をぶつけた。山中 峯太郎、佐藤 紅緑、南 洋一郎、たいていの作家は頭にゴチンときた。
 中学生のとき、人にぶつかったことがある。前が見えない。巨漢だった。眼をあげると、よく知っている顔があった。
 その頃、古川 ロッパの劇団にいた、デブのコメディアン、岸井 明だった。私は、彼の舞台も、映画もよく見ていた。
 チビの私は、彼の股間にもぐり込むようにしてぶつかったらしい。
 「ごめんなさい」
 私は帽子をとって、おじぎをした。
 岸井 明は不愉快そうな顔だったが、私をジロリと睨みつけて、ノッシノッシと去っていった。

 そのとき読んでいた本は、忘れもしない矢野 龍渓の『浮城物語』。

 いまの私はこれほどそそっかしくない。

 「お使いに行ってきてください」
 家人に声をかけられても、私は黙っている。
 近頃どういうものか耳が聞こえない。自分に都合のわるいことは聞こえない。特殊な「病気」、あるいは「超能力」が身についてしまった。(笑)