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 也有の支考批判は、俳諧史の小さな、小さなできごとにすぎない。いまの俳句の作者たちは誰も知らないだろう。也有が支考を論難しつづけたこと、その批評史的な問題は、私の眼には――遠く、正岡 子規の革新や、桑原 武夫の「第二芸術論」、はては虚子、秋桜子、さらには碧梧洞、井泉水の対立などと重なってくる。

 也有は、支考の「俳諧を以て日用を行へという邪説」に激した。許しがたい「邪説」であった。なぜなら師の芭蕉のいう「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」という思想にそむくものと見えたから。

 也有の支考批判の動機には、もとより支考の「変節」があった。元禄、宝永期の支考の俳論は、正徳、享保にかけて、たしかに変化している。私は、支考が芭蕉の思想を自分の内部で発展させて行ったものと見る。もとより逸脱と見ない。逆にいえば、支考はそれほどにも大きく師の教えの影響をうけていたのである。
 ところが、也有は、芭蕉亡きあと、凡兆、路通はもとより、其角の大きな逸脱、許六の逃亡といった蕉門の人びとの離散をうれい、蕉風に還れと叫びたかったに違いない。

 されば蓮二はよし。蓮二をまねぶはあしからむ。

 いまの私には、也有の支考批判がにわかに悲劇的に見えてくる。
 そして、支考の非運も。