也有が執拗に論難をくり返した相手、各務 支考のことを考えた。
支考のどこが也有の非難をこうむったのか。
世情の物に逢て物に感ずる事は、いにしへ猶今にたがふ事なし。
市井に見られるもの、世間に行われることどもに心を動かされる、感動することは、昔も今も変わっていない。だから、
さりとて世情にうとき人は 蛙の土中に冬籠りたるやうにて、それも物の理なかるべし
世情、それもいろいろなできごとに目を向けない人は、蛙が冬眠しているようなもので、そういう姿勢は正当なものではないだろう、という。
されば俳諧は平生をはなれず
そして、
俳諧の平生をはなれぬというは、平生を俳諧とおもふ事なるべし
というのが、支考の制作理論だったと思われる。これのどこがいけないのか。むろん、支考にしても、ただ、世態人情を俳句にすればよいと考えていたわけではない。
しかるに世の人の食くらひ酒のみ、灯をかかげ硯にむかひて、口にいひ紙に書きつけたれば、是を今宵の俳諧とおもへる。さるはなきにしもあらねど、ただ俳諧の日用といふべし。
という。つまり、世情、それもいろいろなできごとに目を向けても、ただ見たもの、頭にうかんだことを、五、七、五にしたところで、例外はあるにしても俳句ではない、ということになる。
私のような門外漢には、支考の説のほうがすっきりしている、と思う。
では、なぜ也有は支考を執拗に攻撃したのか。
(つづく)