朝、ロシアのニュースを見ていると、思いがけずソルジェニーツィンが出てきた。プーチン大統領が、ソルジェニーツィンに国家最高名誉章か何かを贈った。理由は、反スターリンの姿勢をつらぬき通した作家に対する評価であり、旧ソヴィエト体制の崩壊後の混迷のなかで、ソルジェニーツィンが真のロシア精神の復興を主張しつづけたことによる。(07/6/12)最近のソルジェニーツィンの仕事を知らないので、このニュースは私の関心を惹いた。
とっさに私が考えたのは、プーチン大統領がソルジェニーツィンに何を見ているのだろうか、ということだった。いいかえれば、現在、プーチンはなぜソルジェニーツィンをあらためて評価しているのか。
ここでくわしく論じるわけにはいかないが、ソルジェニーツィン受賞には、おそらく、プーチンの内面にひそむドストエフスキーいらいのロシア至上主義が響いている。かんたんにいえば、アメリカ文明の物質的優位に対して、ロシアの精神性の再認識、またはその使命の体現者を、プーチンはソルジェニーツィンに見ているのではないか。つまりは新しいスラヴ思想の再認識ではないかと考える。
この思想では、ロシア人は、やさしさ、従順、敬意にみちて、キリスト教の理想においても一致している。
こうした思想から、ドストエフスキーは「ロシアこそヨーロッパ(に対して)の公平無私な兄である」と考える。1876/77年の「作家の日記」に見られる熱烈なロシア民族主義の主張、しかも好戦的な姿勢が、おそらくプーチンにも潜在している。
プーチンの内面には、ソヴィエト崩壊以後の「手のつけようもない腐敗、精神的な窒息のなかに座して、息もつまりそうになっている」(ドストエフスキーのことば)状態を打破しようとする意欲が脈打っている。それは、すでにソルジェニーツィンにおいて見られたものではなかったか。
ニュースに出てきたソルジェニーツィンは、きびしい修行を続けた修道僧のように瞑想的な顔をしていた。ただし、無表情で、ビュッフェの描いた道化のような顔にも見えた。 一方、プーチンはこの作家と親しく話ができることがうれしかったらしい。とてもいい顔をしていた。このシーンは私の心に刻みつけられた。
(このプーチンのニュースを日本の新聞はまったくとりあげなかった。私にはきわめて重大なもの、ロシアの今後を暗示するほどの「意味」があったと見た。しかし、日本のジャーナリズムは、現在、ソルジェニーツィンの受賞に興味をもつ読者はいない、と判断したのか。)