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 「文学講座」めいたものを続けている。

 たとえば――ヴォルテールは、20世紀の読者が『カンディード』を読むなどということは考えもしなかったろう。
 その一方で、『ザイール』が上演されないと知ったら、ひどく驚くにちがいない。
 ボードレールは、後世、自分の詩が読みつがれているばかりか、研究者たちが、自分の詩の一行々々まで克明に分析したり、自分とジャンヌの性生活まで調べあげられるとは夢にも思っていなかったはずである。
 スタンダールはまったく売れない作家だったから、自分を理解してくれるはずの「幸福な少数者」のために書いたといっていい。しかし、彼の『赤と黒』や『パルムの僧院』は、世界じゅうで読まれている。
 そのスタンダールは、昂然として書いていた。ラシーヌの生命は終わった、と。
 しかし、「コメデイ・フランセーズ」は、いまでもラシーヌを上演している。

 日本の作家は……いや、よそう。

 そういえば、『神曲』について、ヴォルテールが語っている。「世界でもっとも有名で、もっとも読まれない名作」と。
 どこの国の文学史にも、こうした「お笑い」がいっぱいつまっている。