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今でもつきに二度は神田の神保町を歩いている。
私の知っていた界隈もすっかり変わってしまった。

戦後すぐの神保町を思い出す。
駿河台から神保町にかけて、空襲でも焼け残ったが、淡路町、小川町から多町、司町一帯は全焼していたし、水道橋の駅はホームの屋根が焼けただれて、鉄柱もなくなっていた。(酒に酔った小林 秀雄が、このプラットフォームから転落したのは、この後のことである。)
戦争が終わったばかりで、毎日、大きなニューズがつづいていた。特高警察が廃止され、内相、警視総監をはじめ、軍の上層部、右翼の指導者がぞくぞくと逮捕され、治安維持法が廃止され、言論の自由が指令されて、国民に重くのしかかっていた軍国主義の暗雲がはれたばかりだった。
大学は再開されたが、教授たちは疎開先から戻ってこなかったため、授業はほとんどが休講だった。私と、友人の覚正 定夫(柾木 恭介)はほかに行くところがないので、毎日、大学の教室に行った。教室にいると、召集されて入隊した友人の誰彼が、よれよれの復員兵の姿で真っ先に教室に戻ってくるのだった。

戦後すぐに「岩波」が文庫を出したとき、店の前に徹夜でたくさんの客が並んだ。まだ新刊書もろくに出なかったし、「岩波文庫」の復活は、誰にも自由の到来を実感させた。古書は店の棚もガラガラだった。しばらくして、まだ営業できなかった「神田日活」の前の歩道にムシロを敷いて、その上に占領軍の兵士が読み捨てたポケットブックや、けばけばしい表紙の雑誌を並べて売る露天商人が出た。
外国の本に飢えていた学生たちが群がっていた。

ゴザの上に5~60冊ばかり、ポケットブックが投げ出されている。半分は、横に細長いアーミー・エディションで、手にとって見た。活字がぎっしり詰まっている。二、三行、読んでみた。なにが書いてあるのかわからなかった。
次々に手にとって見たが、私の英語では、まったく歯が立たなかった。

その中に一冊、なんとか読めそうな小説があった。短編集らしい。作者は、ウィリアム・サローヤン。知らない作家だった。農村らしい風景に少年が立っている表紙。内容は、私でも何とか読めそうな気がした。
もう一冊、買うことにした。やさしい文章で書かれたものをさがして、全部の本をひっくり返したあげく、やっと一冊見つけた。
作者は、ダシール・ハメット。むろん、この作家も知らなかった。二冊で20円。

当時、食料は配給制で、外食するときは、外食券が必要だった。ソバ一杯が、17円。つまり本を二冊買っただけで、一食抜きということになる。空腹を抱えて、やっと買った本であった。

帰宅して、辞書と首っぴきで読みはじめた。最初にサローヤンを読みはじめたが、主人公がアラムという少年とわかった程度で、あとはまるでわからない。そこで、ハメットを読むことにしたが、こちらは冒頭から何が書いてあるのかまるっきり見当もつかなかった。このとき私の内面にあったものは、なんともいいようのない思いだった。オレはバカだ、と思った。そのことに絶望した、というより、ひどい空虚感があった。そもそも語学もろくにできないのに、いきなりアメリカの文学にふれたいと思った、なんという傲慢だろう。自己嫌悪があった。
そもそも英語もろくに勉強していないのに、こんな本を買おうと思った自分の思いあがり、うかつさに腹が立った。わざわざ読めそうな本を探して、まるで読めないていたらくであった。
空腹で眼もくらみそうなのに、食事を抜いてまで、読めもしない本を買い込むのは、バカとしかいいようがない。少しでも読めると思っていながら、まるっきり読めない。なんという阿呆だ。

その日から、アメリカ小説を相手の悪戦苦闘がはじまった。