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もう前のことだが、テレビで「三大テノール・ガラ・コンサート」を見た。(05年10月5/6日。サントリーホール)。たぶん再放送だろうと思う。
指揮、ニコラ・ルイゾッティ。東響。ヴィンチェンツォ・ラ・スコラ、ジュゼッペ・サバティーニ、そしてニール・シコッフ。
その内容をここに書くつもりはない。

第二部「ナポリ民謡」が終わって、万雷の拍手。三人が舞台から引っ込む。むろん、アンコールの拍手が続く。最後に三人の「サンタ・ルチア」でおひらき。しかし、観客は、それだけではおさまらない。拍手がつづく。
すると今度は、スコラがチェロを抱えて出てきた。え、歌うんじゃないのか。観衆がちょっと驚く。それを見たルイゾッティがピアノに向かった。おやおや、何をやるんだろう。
ふたりはサン・サーンスの「象」を演奏した。むろんご愛嬌だが、場内は大喜び。驚いたことに、つぎにルイゾッティが「フィガロ」を歌った。けっこう聞かせる。ウケた。
つづいてサバティーニがフルートをもって出てきた。当然、スコラの隠し芸に対抗して、何かご披露するのだろう。ベルリーニの「ノルマ」のアリアを演奏した。これがまたウケた。
こうなると、観客もやたらにうれしくなってくる。さて、つづいてはシコッフが何をやるのか。ますます期待が高まってくる。
シコッフは、昔のオリヴァー・ハーディー(相棒がスタン・ローレル。サイレント時代からトーキー初期に大変な人気があった喜劇役者)みたいな動きで、ヴァイオリン・ケースを抱えて出てきた。なんと、シコッフの演奏が聴けるとは!
シコッフがヴァイオリン・ケースのふたを開く。楽譜を引っかきまわす。演奏するはずの楽譜が見つからない。次々に、楽譜をつかんでは舞台に放り投げる。あとの二人も、心配そうな顔で寄ってきて、出番が終わったサバティーニたちも見るに見かねて、あわてて寄ってくると、いっしょになって楽譜をつかみ出す。ステージに紙クズが散乱する。
シコッフが青いハンカチーフをつかんで放り出す。ここまできて、観客はシコッフのかくし芸は手品らしいと気づく。
最後に、やっとお目当ての品(楽譜)が見つかったらしい。シコッフの顔に笑みが広がる。観客も安心する。と、彼がとりだしたのは、なんとトライアングル。観客がどよめく。
それはそうだろう。スコラがチェロ、サバティーニがチェロなのだから、シコッフが何かの楽器を出して、みごとに演奏すると思っているのだから。観客に笑いがひろがった。

観客がしずかになったとき、シコッフは耳元に寄せて、その楽器をかるくたたく。音はほとんど聞こえない。観客はこの寸劇に大爆笑で、シコッフも、してやったり、という感じでうれしそうな顔になる。このシコッフは、一流のコメディアンの風格さえ見せていた。

誰の記憶にも残らないようなシーン。しかし、日本のオペラ界でこういうパーフォーマンスはほとんど見られない。だから、こんなことにも一流のアーティストの風格から文化の成熟、芸術を楽しむ余裕といったものが見えてきて、それが、私にはうらやましかった。