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「お買いものに行ってちょうだい」
母にそういわれて、私は5銭玉を握りしめて勝手口からかけだした。路地を出た先に小さなお店があった。食料品が主で、ほかに日常の雑貨を並べた便利屋で、店先に、大豆、ウズラ豆、サツマイモを入れた木の箱、野菜の隣にイワシ、サバの干物、トウフや佃煮が並んで、棚のクギに下げたザルに生みたてのタマゴが盛られている。
鶏卵は毎日の食卓に並ぶにしても、たいていはその日の朝に買う習慣だった。冷蔵庫もない時代で、タマゴは足の早い(腐敗しやすい)食品だったし、値段も高かった。

下水に格子のフタがはめ込んである。それを避けてピョンと飛び越えた。とたんに、小さな手の中から白銅貨が飛び出した。大切に握りしめてきたのに、道路に飛び出した拍子に手のひらを開いてしまったらしい。
5銭玉は私の目の前で転がってゆく。あわててそれをつかもうとしたが、そのはずみに前にバッタリ倒れた。白銅貨は転がり続けて、排水溝のフタのあいだに吸い込まれた。

信じられない出来事だった。私は泣き出した。
私の様子を見ていたらしい近所のおばさんがすぐに駆け寄って、私を抱き上げてくれた。
「おう、可哀そうに。痛かったねえ」

膝をすりむいたらしく、少しだけ血がにじんでいた。痛みは感じなかった。
私はなぜ泣いたのだろうか。5銭銅貨が自分の見ている前で転がって、それをつかむことができなかった。これはありえないことだった。それが信じられなくて泣いたのだった。

このできごとは幼い自尊心を傷つけたような気がする。泣きながら家に戻って、母にすがりついた。母は私から事情を聞こうとしたが、私にはうまく説明ができなかった。はじめてのお使いに失敗した。だから泣いたのではなかった。お金を落としたためではない。他の理由でもないようだった。自分でも何がどうなったのかわからない。だから泣きだしたのだろう。そういうことが、幼い私には言葉で説明できないのだった。ただ私は母にとりすがって泣いていた。

三歳半か四歳の私の記憶。