BS11で、ルネ・クレマンの「しのび逢い」(1954年)を見た。主演はジェラール・フィリップ。
この映画は何度も見ている。ジェラール・フィリップは、私の『ルイ・ジュヴェ』に登場してくる。ありし日のジェラールをしのびながら、いろいろなことを思い出した。
原作は『白き処女地』のルイ・エモン。戦前のフランス映画ファンなら、ジュリアン・デュヴィヴィエの映画を思い出すだろう。若き日のジャン・ギャバン、マドレーヌ・ルノーの姿も。
この「しのび逢い」のなかで使われているテーマのシャンソン、作詞がピェール・マッコルラン。作家としてのマッコルランは、日本ではほとんど知られていないが、私たちは、おなじデュヴィヴィエの『地の果てを行く』の原作者だったことをおぼえている。
古い映画を見ていると、もはや失われた風俗、ファッション、街の風景が、あらためてよみがえってくる。現在のロンドンの人がこの映画を見れば、なにがなしノスタルジックな思いにかられるかもしれない。この映画で、私たちはイギリスの「戦後」を見ることができる。
ルネ・クレマンは、『禁じられた遊び』を作ったあとで、この映画をロンドンで撮っている。そんなことから、別のことを考えはじめた。
おもに女性の風俗を描く作家は、風俗作家として、いささか不当にあつかわれてきた。 志賀 直哉が文学の神様のようにあつかわれていた時代が長く続いたが、今では志賀 直哉よりも、里見 敦や、芥川 龍之介、久保田 万太郎のほうがずっとおもしろい。
中村 光夫のような批評家は、風俗作家を徹底的にコキおろした。たしかに、たいていの風俗小説は書かれてしばらくは読まれるかもしれないが、すぐに命脈が尽きてしまう。しかし、一世代、二世代たって読み直すと、意外に新鮮に見えたり、あるいはその時代の姿を想像させてくれることが多い。最近の文学の動きのなかで、中村 光夫のような批評が消えただけでも、ずいぶん風通しがよくなった。
「しのび逢い」は、艶笑ものといっていい。家賃も払えずにアパートから逃げ出す主人公が、よれよれのレインコートに隠して持ち出したカセットを、路上に落としてしまう。つぎの瞬間、通り過ぎた車のタイヤが轢いて、ラジオが壊れる。残骸をひろって立ちつくす「リポワ」。茫然自失するその表情に、俳優、ジェラール・フィリップのすごさがみられる。惜しい俳優だったなあ。
「しのび逢い」という邦題はよくない。ジェラール・フィリップが、どこか哀愁をおびた二枚目なのでこんな題になったのだろう。原題は「ムッシュウ・リポワ」。今ならこのままの題名で公開されるだろう。
古い映画を見ながら、とりとめもないことを考える。私の悪徳のひとつ。