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本所で育った。つまりは隅田川を毎日見て育ったことになる。
同級生に口の悪いノがいて――
おめぇ、本所ッ子かぁ、隅田川の向こうから、ひらりひらりと、風吹きカラスで飛んできたか。

島崎 藤村を読んでいて、

流れよ、流れよ隅田川の水よ。少年の時分からのお前の旧馴染(むかしなじみ)が複たお前の懐裡(ふところ)へ帰って来た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなどの河畔に立って私が思い出すのは何時でもお前のことだった。

という一節にぶつかったとき、なんともいいようのない気分になった。
えらい作家は違うなあ。私などは、とてもじゃないが、流れよ、流れよ、隅田川の水よ、なんて口に出せない。だいいち、隅田川に向かって、お前なんぞといえるわけがない。
セーヌ、アルノ、ネヴァの河畔に立ったことがある。ついぞ隅田川のことなどや思い出しもしなかった。

島崎 藤村はどうも好きになれない。本所ッ子のひがみだろう。