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冬のある日、椎野 英之(当時、「時事新報」の記者だった)が、私をつかまえて、
「耕ちゃん、すまないが原稿を取りにいってくれ」
という。私はこころよく引き受けた。親友の椎野に頼まれて、いなやはない。戦後すぐのはげしい混乱のなかで、有名な文人がどういう生活をしているのか見ておきたかった。それにまったく無名の私は暇だったから。

玄関先で来意をつたえると、上品な夫人が書院に案内してくれた。
明窓浄机という言葉がふさわしい和室で、みごとな軸が一幅、これもみごとな黒檀の机。
私は、どこに控えていいのかわからずに、和室の隅にかしこまっていた。先ほどの夫人がお茶をふるまってくださった。
しばらくして、主人が姿を見せた。

「原稿はまだ書いていないので、これから書きます。待っていてください」

いくらか太めの万年筆で、すぐに書き始めた。私は驚いて見ていた。私の見ている前で正座したまま、机に置いた原稿用紙にすらすら書いてゆく。
古風にいえば、白雪の音も聞こえる静けさだった。

やがて、原稿を頂戴した私は深く頭を下げた。その先生は丁重に頭を下げて、
「お待たせしました。椎野君によろしくおつたえください」
と声をかけてくれた。

何もかも驚きだった。新聞社のお使いさん、せいぜいアルバイト学生にすぎない私を丁重に扱ってくれた。なによりも驚いたのは、私の見ている前で即座に原稿を書きあげたことだった。
戦後すぐのことで、日刊新聞も裏表2ページ、紙面にまったく余裕がなく、この原稿もせいぜい8百字程度の随筆だったと思う。
現在の私でもさほど苦労せずに書ける枚数だが、そのときの私は驚くばかりだった。その筆跡にはまったく渋滞のあともなく、書き込みや修正もなかった。
この人が土岐 善麿出会った。未成年の私が戦後初めて会った文学者ということになる。当時、還暦を迎えたぐらいの年齢ではなかったか。
当時、私は18歳。