550

幼い頃、私の家に竈(かまど)があった。へっついという。火を起こすのは子どもの仕事で、火吹き竹でふうふうやった。けむりが眼にしみて、涙を流しながら。

今ではどこの家庭にも電気釜が普及しているので、お米の炊き方を知らない女性もふえている。若い女性のほとんどが知らないだろう。
たとえば、地震や火災で被害をうけた人々が、ご飯を口にできるまでかなり時間がかかっている。お米はあっても炊き方がわからない。そこで、私流のお米の炊きかたを。

何時間か前にお米をといで、ザルにあげておく。
水かげんは、好みによって違うが、昔は米一升に水が一升二合というのが、だいたいの目安だった。
釜の口を蔽う大きさのフキンにじゅうぶん水をふくませて、濡れたままを釜にかぶせる。その上から木のフタをして、〈ときには、重石(おもし)で〉おさえる。
火は最初から強火。一升なら、十分ぐらいで、ふいてくる。重湯がふき出さないうちに、火を全部ひいてしまう。
それから、四、五分して、お米の煮え立つ音が静まるのを待って、古新聞、オガクズ、古縄、段ボールなどを燃やす。これで、もう一度、沸騰させてから、しばらく蒸しておく。これを、仕上げ炊きという。

この仕上げ炊きで、ご飯につやが出て、ふっくらと炊きあがる。しかし、火加減によっては、釜の底が焦げついて、オコゲができた。このオコゲをショウユで食べるとおいしかった。
地震や火災にそなえて防災訓練をするのも必要だが、そうした訓練には、被災した場合手持ちの食材をかき集めて、すぐに料理ができる練習もしておいたほうがいい。

登山に熱中していた頃、ご飯はたいてい旧陸軍の飯盒(はんごう)で炊いていた。私のアナクロニズムだが、夏、アルプス銀座に登るような連中を軽蔑していたせいもある。
ただし、飯盒の炊きかたはけっこうむずかしい。
はじめチョロチョロ、中パッパ、と呪文のように唱えながら炊くのだが、最後に、登山靴で蹴って、飯盒をひっくり返してムラす。このタイミングがむずかしい。
誰も登らないコースで悪戦苦闘したあと、飯盒で炊いた「銀しゃり」をパクつくのは、登山のよろこびのひとつ。
非常食はお米一合、仙台のゆべし(伊達 政宗の戦陣食)、塩、味噌、サラダオイル。小さなフィルムケースにつめておく、角砂糖4~5個ときめていた。小さなケースなので、浄水用の錠剤といっしょに、輪ゴム、麻紐をぐるぐる巻きつける。止血用その他に応用できる。
しばらくして調理はアメリカ軍払い下げのパン(なべ)ですませるようになって、飯盒とも縁が切れた。

なぜ、こんなことを書いておくのか。理由はある。いつか時代をへだてて、私のコラムを読んでくれる人がいないともかぎらない。ひょっとして……かつて日本人がどういうふうにお米を炊いて食べていたか、興味をもつかも知れない。
私がいろいろなトリヴィアを書きとめておくのは、それ以外の理由からではない。