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チュリッヒの駅はそれほど大きくない。東京駅の北口ほどの大きさだった。大理石のフロアに、女性がひとり、ホールの中央に大きなトランクを2個置いて、足を組んで腰をおろしている。ペール・グリーンのコート、黒と白のチェックのスカート。服装が派手で、遠くから見てもアメリカ人の旅行者とわかった。ブルジョアの奥方が、ヨーロッパ旅行のついでに、チュリッヒに立ち寄ったという感じだった。
平日の午後。ほかにあまり旅行者の姿はなかった。誰も彼女に注意を向けなかった。

私は、小形のトランクを引きずって、改札口を出た。まっすぐ歩いて行く。彼女のそばを通った。その顔を見た。なぜか、見おぼえがあった。

誰だったろう?

私は案内所をさがすふりをしながら、彼女に近づいて行った。思い出した。私の顔には、かすかな驚きがあったと思う。

彼女が私を見た。その顔にかすかな驚きがあった。
見知らぬ東洋人が、どうして私を知っているのだろう? 一瞬、そう思ったのではないだろうか。しかし、この東洋人が私を知っていても、べつに不思議ではない。
そういう表情だった。

私は、きわめてわずかな瞬間、彼女を見ただけで眼をそらせた。心のなかで、
ハロー、アグネス!
と声をかけた。

彼女もそれに気がついたのではないだろうか。
私に向けた眼に、よく、私のことがわかったわねえ、という意味がひらめいたような気がする。
彼女はかすかに微笑して、バッグからサングラスを出した。
これだから困るのよ。どこに行っても、人の眼がうるさくて。

アグネス・ムアヘッドだった。