中学校の帰りに、駿河台下の「三省堂」で新刊書の棚に出ている本を見る。懐がピイピイしていたから、しばらく眺めて、一冊も買わずに外に出るだけのことだったが。
「三省堂」の前から市電に乗る。須田町乗り換えの、「柳島」行き。須田町で乗り換えずに、本所緑町に出て、ここから「押上」行きに乗っても帰れるのだった。
「三省堂」を出てから、神保町の友達の家に遊びに行くこともあった。
「神田日活」の前を通る。おおきな看板、スターのポスターを見たり、スチール写真をながめてから、少し先、表通りから一つ裏の通りに出る。神保町二丁目。
友人の家は、この通りのお菓子屋さんだった。
路地に入ると、焼きたてのパンのこうばしい匂い、あまいクリームや、シュガーの匂いがただよっている。
表通りに面したお菓子屋さんだが、典型的な家内作業で、店のすぐうしろに、パンを焼く大きなレンジや、作業台があって、ご両親がケーキを作っている。そのパンやケーキは、すぐ近くの有名なケーキ屋に卸している。ケーキも下請けの工場で作っていることをはじめて知った。
「Kく~ん」
と、二階をめがけて声をかける。とん、とんと階段を下りてきた年上の姉さんが、少年の姿を認めると、
「あら、中田くん」
美しい娘が立っていた。
その頃の下町娘らしい綺麗な顔だが、きりっとした眉の下には、はげしい気性らしい眼があって、少年を見ていた。しかし、すぐに弟の同級生とみて、
「遊びにきてくれたの? ・・・だけど・・・」
ちょっと二階を見上げるようにして、
「あがって待っててくださる? Kはお店にお品物を届けに行ってンのよ」
おとなびた、冷たくかしこい顔と見たのが、愛嬌のあるお侠ないいかただったので、少年の顔に、当惑のいろが見える。
「じゃ、また、明日きます」
「かまわないわ。あがってちょうだい」
「でも、なんだか・・」
「かまないのよ」
姉さんは、少年を二階に導いた。
眼の前の階段を、うっすらと紅いろのくるぶしがトントンとあがって行く。すっきり伸びた足の白さに、眼がくらみそうだった。
階段をあがって左側に姉さんの部屋があって、ハンガーにかけられた女学生の制服がちらっと見え、ワニスのきいた本棚に綺麗な本がずらりと並んでいた。
女学校上級の姉さんの姿は、少年の眼にはあやしいまでに美しかった。じっと、自分を見るそのまなざしのなんという charming な輝き!
「さ、どうぞ、お入りになってちょうだい」
友人の部屋は、小学生の弟といっしょで、机が二つ並んでいた。三人姉弟と分かった。
「中田くん、いろんな本を読んでいるんですって?」
まともに姉さんに見つめられた瞬間、くらくらと眼がまわるような気がした。
その日から、毎日のように友人の部屋に遊びに行った。姉さんに会うことはほとんどなかった。女学生で、しかも上級生なので、帰宅の時間も違っていた。夕方、暗くなりかけて、神保町の電停あたりで、帰宅する姉さんに会って、おじぎをするくらいが精々だった。しかし、姉さんの本を借りることができたので、それを返しに行くという口実で、友人の部屋に行くのだった。
ある日、友人に、さりげなくいってみた。
「きみの姉さん、ほんとうに綺麗だね」
そんなことをいっただけで、胸がどきどきした。
「あいつ、このごろ女になりかけているんだ」
Kくんがいった。
その年の冬、日本とアメリカの大きな戦争がはじまった。