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戦時中、中学生は映画館に行くことを禁止されていた。
文部省推薦の映画なら父兄同伴で見に行ってもよかったし、学校側が、「ハワイ・マレー沖海戦」とか「陸軍航空戦記」といった映画を見せることはあった。
私は浅草が近かったし、近くに場末の映画館があったので、しょっちゅう映画館にもぐり込んでいた。警察や学校の補導も、そこまで眼が届かなかった。

「阿片戦争」という映画を見た。マキノ正博監督。主演、市川 猿之助(のちの猿翁)、青山 杉作、高峰 秀子。
映画の内容はイギリスの侵略を批判したもの。それほどいい映画ではない。しかし、戦時中、高峰 秀子という少女スターにあこがれていた中学生としては、ぜひにも見たい映画だった。

イギリス軍の砲撃に逃げまどう清国民衆のシーン。ロングショットで、建物から無数のアリのように人間があふれ出して、路上を埋めつくす。
当時の日本は映画の特撮技術も発達していなかったので、どうやって撮ったのだろう、と思った。
同時に、このシーンはどこかで見たような気がした。どこで見たのだろうか。

ある日、岸という同級生が声をかけてきた。「阿片戦争」を見たという。

「中田君、気がついたろ? あれ、すげぇなあ」
「何が?」
「ほら、中国人が逃げるとこさ」
「ああ、あのシーンか」
「やっぱり、気がついたか。きみなら気がつくと思った。アリス・フェイ。よかったなあ」
岸という少年は私の顔を見て、ニヤリと笑ってみせた。
その瞬間、彼のことばの意味がわかった。
アリス・フェイ。小柄だが、くらくらするような輝き。
この女優のことを知っているのは、クラスでも岸と私だけだったに違いない。
おそらく私は動揺していたと思う。
「阿片戦争」の群衆シーンは、アメリカ映画「シカゴ」の大火のシーンのワン・カットをつないだものだった。「シカゴ」。ドン・アメチー、アリス・フェイが出ていた。戦争がはじまる前に下町の場末の映画館で上映されていた。私は向島の場末で見たのだが、いまでは内容もよくおぼえていない。
しかし、シカゴの大火が「阿片戦争」で使われていたことは、ぜったい間違いではない。まったくのトリヴィアだが、このことは私の心に残っている。

このシーンのことは岸君と私だけの秘密になった。
中学生が映画館に行くことも禁止されていたのだから。