はるか後年になって、「リンゴの唄」が書かれた事情を知った。
じつは、この歌詞は戦争中に書かれたものという。
戦時中に軍歌や戦意昂揚の歌が歌われていたのは当然だが、庶民が好んで歌った流行歌には、戦争に関係のないメロディアスな曲もあった。
「湖畔の宿」、「伊那の勘太郎」、「狸御殿」、「お使いは自転車に乗って」といった流行歌である。わずかだが、これらの歌は、現在でもすぐれたものである。
サトー・ハチローは、戦時中の庶民のために「リンゴの唄」を書いた。ところが、「聖戦遂行」に反するものとして、軍の検閲に通らなかった。
当時の軍部の頭脳程度の低さ、横暴ぶりは、いまさら指摘するまでもない。「頭のわるいやつがごろごろしていた」ものだ。おそらく大本営/陸軍部の松村(大佐)あたりが激怒したのだろう。
検閲の忌避にふれたのは「赤いリンゴに 唇寄せて」という歌詞が、色情的、つまりエロティックだという理由だったらしい。
さらに、この非常時に、青い空を黙って見ているとは何事か、といった愚にもつかない叱責を浴びせたという。
サトー・ハチローの「リンゴの唄」はそのまま埋もれた。
戦争が終わって、レコード会社は、それまでの戦争協力の態度を一変する。
といって、すぐに出せるレコードがあるはずもない。とにかく、何かださなければならないので、オクラになった作詞、作曲をひっかきまわしていて、「リンゴの唄」が出てきた。とりあえず、これを新譜として出すことになった、という。
レコード制作の現場のいい加減さ、オポチュニズム、コンフォーミズムは、昔も今も変わらない。だが、結果的にこの歌は空前のヒットになった。
このことを知ったときから、私の「リンゴの唄」に対する嫌悪は消えた。というより、私の内部にひそんでいる大衆に対する不信が、どんなに軽薄なものだったか、したたかに思い知らされたといってよい。
そして、「検閲」のおそろしさを。