3月10日のことは私の内面に深く刻みつけられている。
私は作家なのに、この夜のことは書けなかった。いくら書こうとしても書けない。あまりにもおそろしい、悲惨なできごとだったから、いくら書きたくても私の手にあまるものだった。思い出すことはできる。だが、いくら思い出そうとしても、何かが欠落しているのだった。私の内面には絶望しかなかった。
吾妻橋二丁目に住んでいた私たち家族四人は、隣組の人たちと、一カ所にかたまりあうかたちになって、渦まく炎と風にあぶられつづけた。前後左右、とくに背後から猛火に追いつかれ、前に進もうとしてももはや1メートル先は、ごうごうと音をあげる火の渦だった。
火に巻かれた人間は火を吹く髪をむしり、虚空をかいて爪を剥がし、われとわが身を破り、手足をひきちぎって、血と、煙と、火炎といっしょにすさまじい叫びを、口から噴きあげる。生きながら燃えあがって人間が倒れ、みるみるうちに炭化してゆく。
私たちは防火用水の水をかぶって、熱した地面を這いずりまわった。
業平橋から先の、わずか数分前に焼け落ちたあたり、猛烈な劫火にあぶられ、火焔の飛沫が、縦横無尽、滝のように襲いかかってきた。炎のなかに黒い影が動く。つぎの瞬間には、この世のものとも思われない悲鳴が聞こえる。それは人間の声というより、野獣が咆えるような声だった。それはつぎつぎに起きては、すぐにとだえた。
母が、必死に防火用水のへりにしがみついて、毛布をたたき込み、やっと水にひたした毛布を頭からかぶせてくれた。火の粉が頭上から降りそそぐ。というより、無数の火のかたまりが瀧のようになだれ落ちてくる。
父と母、私と妹の四人は橋の上を這いずりまわりながら、数十分かけて、やっと業平橋をわたり終えた。途中、市電のレールに手や頬がふれると、火傷するほどの熱さだった。
業平橋界隈が、ほんの数分前に猛火につつまれ、火が風を喚んで、みるみるうち押上方面に延焼した、という偶然が――結果として、先に焼け落ちた場所に逃げるしかなかった私たちに幸いしたのだった。
(つづく)