芥川 龍之介の「本所印象記」に、
「椎の木松浦」のあった昔は暫く問はず、「江戸の横網鶯の鳴く」と(北原)白秋の歌った本所さへ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったといふ外はない。
いかに万物は流転するとはいへ、かういふ変化の絶え間ない都会は世界中にもめずらしいであらう。
「本所印象記」が、彼の死後に発表されたことを思うと、私には格別の思いがある。
1945年3月10日の大空襲で、深夜、空襲を知らせるサイレンに飛び起きて、闇のなかでゲートルを巻き、防火用水の水をたしかめたとき、すでに深川、両国あたりが炎上していた。本所の吾妻橋二丁目に住んでいた私たちは、この空襲が尋常いちようのものでないことを直感した。火とともに、暴風のような風が吹き荒れて、下谷、浅草の空も真赤に燃えあがっている。私たち一家は業平橋方面に逃げようとした。横川、緑町、さらには深川の空が赤く炎上し、その中をB29が白くうかびあがって飛んでいる上野、浅草方面には逃げられない。私たちは、四方八方を火に囲まれて、逃げ場を失っていた。
私の家族や、近くの十数人は折り重なるように身を屈め、這いずりまわって業平橋方面に逃げて、燃えさかる炎を避けようとした。だが、ここが地獄の入口だった。
すでに業平橋の角にあった医院が炎上していた。吾妻橋側から、北十間川支流の堀割をへだてただけの距離で、業平橋界隈から押上、柳島までが猛火につつまれている。
私の見たものは、絶望が燃えさかっている姿だった。
(つづく)