鼻の先でピシャリとやられる。フラれる。
それをどういっているか。
「鼻の先でぴしゃり?」
「いや違います。わが国では、巷間、これを振ると云ひますね。振る、または、振りつける」
「あら、それなら平凡ですわ」
「ところが、これが男性の心胆を萎縮させる言葉でしてね。荒涼たる感じの用語です。これと同じ手の用語は、まだそのほかにたくさんある。愛想づかし。厭やがらせ。厭やみ。おどかし、わるふざけ、ひやかし、やまひづかせ、おもはせふり、うれしがらせ、おためごかし、その他いろいろありますが、みんな一つ一つその味はひが別個の感じを持ってゐて、それでありながらその感じの後味は一味ほろにがいものがあるやに思はれますね」
この説を聞かされた「女子医専」の女の子は、相手が自分に気があるのではないかと警戒して、ストッキングをはいている足をそれとなくスカ-トのなかに隠す。それを見ていた、別の男が、彼女の顔に「空気が集まってきた」という。
「空気ですって?」
「左様、空気が立ちこめました」
この空気については、具体的に説明できない、という。たとえば・・・同じアパ-トに住んでいるマダムのように、見るからに裕福に稼いでいる女の顔には、少しも「空気がないようなもの」という。
マダムが商売女として稼いだか稼がなかったかということは、この「借問先生」のような苦人には一目瞭然でわかるという。
笑ったね。こいつぁいいや。
私も、今年から「空気が集まってきた」とか「空気が立ちこめてきた」ということばを使うことにしよう。
井伏 鱒二先生の初期の短編『末法時論』(1938年)に出てきた。