この「人生案内」は、現在の私にさまざまな波紋をなげかけるようだった。
これに、作家、立松 和平が回答している。
短いお手紙の中で、一代記を読ませていただいた気がいたしました。誰でも自分の半生を振り返るものでしょうが、悲しいと思えば悲しみの色に染まり、うれしいと思えばうれしさの色に染まります。おなじ人生でも、気持ちによってどのようにでも変わるものです。
あなたのお年で、あなたより健康に恵まれていない人は、身の回りにたくさんいます。その人たちがすべて心まで弱っているとは私には思えません。死の床に横たわって余命幾ばくもなくとも、その日その時間その瞬間を、希望を持って生きている人もいます。
あなたがこれまでの自分の人生を否定的にとらえていることが、若輩で申し訳ないのですが、私には気になりました。生きたくとも80歳まで生きられない人は、たくさんいます。100歳まで生きられるというなら生きるべきではないでしょうか。死を自分で決めてはいけません。目や耳は誰でも年とともに衰えてきます。散歩が楽しみというあなたは、足がしっかりしているのですから、方々歩いて、一人でも多くの人に出会ってください。
私は立松 和平に敬意をもっている。かりに、私が答えたとしても、似たような答えになるに違いない。
短い紙数で何ほどのことも書けないと承知しているが、この老人ははたしてこの答えで安心するだろうか。
この老人は、散歩を楽しみにしている。足がしっかりしているのだから、方々歩いているだろう。だが、たかが散歩するくらいで、どれほど多くの人に出会えるだろうか。
私もよく散歩をする。近くの公園に集まった老人たちが、木蔭で将棋を楽しんでいる。しかし、ベンチに腰かけて、ただぼんやりしていたり、うつらうつら眠りこけている姿を見る。その老人たちは一人でも多くの人に出会うことはない。
私にしても似たようなものだと思う。
老人は長く独身だったが、ある女性と結婚した。子どもにも恵まれたが、不幸なことに5歳の子どもと死別。夫婦で悲嘆のどん底に陥った。
その妻も3年前に亡くなって、最近死にたくなってきたという。
ここに語られている孤独に、私たちはどう答えることができるだろうか。
生きているかぎりどのような人の愛別離苦も私たちに無縁なものではない。
この「人生案内」は、おなじ老人の私にさまざまな波紋をなげかけてくる。
むろん 私はこの老人に答えるのではない。そんな資格は私にはない。
ただ、立松 和平とは、まったく別の問題について考えてみようと思う。
たとえば愛別離苦にかかわるエロスについて。