教育改革が問題になって、教育再生会議なるものができた。「ゆとり教育」の見直しという観点から、全体に教員の質の低下とか、教育の現場に不適格な教員が多いということが問題になっている。
教員としての素質も適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは教員の教育能力を向上させなければならない。ゆえに、ひろく検定試験を実施し、何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。
おいおい、冗談じゃねえや。
何かいまわしい事態が明るみに出ると、きまってこういう「正論」が出てくる。私が、もっとも軽蔑するのは、こういう「正論」なのだ。「正論」というやつは、正面きっては誰も反論できない。だから、こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。
数学だけに限定しても、各国の7~14歳の児童のうけている授業時間は、
フィンランド 2018時間
韓国 2182 〃
日本 2359 〃
しかし、成績のレベルは、1位が香港、2位がフィンランド、3位、韓国とつづいて、オランダ、リヒテンシュタイン、日本は6位。
つまり、日本の数学の授業は、授業時間に比して効率がわるいということになる。
では、日本の小学6年生の国語の授業時間は、
1970年代 245時間
2004年 140時間
哀れだなあ。言霊のさきわう国の国語力のいちじるしい劣化がわかるだろう。
教員の再検定とか、免許の更新ということが問題になっている。
これにも笑ったね。車の免許じゃあるまいし。そんなことが実施されたら、現場の教師は、検定のための「勉強」に終われるだろうし、いろいろ苦労させられるだろう。
そんなことを考えることにこそ、現在の教育システムの破綻があるのだ。
個人的な資質、教育に対する熱意、その人格の程度くらいは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。私は小学校のときから、「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だったと思う。
今だって、小学生、生徒たちは、はっきり見ているはずなのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は、表面は「よくできる」先生だが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしているか。uu先生は誰それさんをヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。etc、etc・・。
たいていの子どもたちは、いつだってかなり正確に「先生喜劇」を見届けている。
クラスにおける教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、権威主義的であり、教育学的に誤りである。
私は教員のレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんな小手先の改革で、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるものなのか。
むしろ、府県単位の教員免許制度を廃止すべきである。ただし、全国共通の教員試験を実施せよ、というのではない。一府県で教員免許を取得した人は、どこの府県でも教育者として採用できるシステムを確立すべきではないか。
最近、いじめの問題が深刻化して、自殺する児童、生徒が出てきたが、これまで文部科学省には、そうした深刻な事例は一件も報告がなかったという。
そういう連中が、教育界を停滞させ、ひいてはレベルを低下させてきた。その責任を問うべきなのだ。
(「児童虐待防止法案」なるものは、すでに昭和4年に、当時の帝国議会に提出されているくらいなのだ。ウソだと思ったら調べてみるがいい。こういう「いじめ」が、戦前の日本の陸海軍にはびこっていたことは否定できない。下級兵にかぎらない。下士官クラスの新兵いじめ、部下いじめのひどさ、悪辣さ、陰湿さを思い出すがよい。)
教育問題については、いずれまたとりあげよう。