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明治時代の邦楽で、ほんとうの名人といわれたのは、常磐津 林中(りんちゅう)、七世、松永 鐡五郎、その義兄の三世、松永 和楓(わふう)といわれている。
和楓(わふう)は非常な美声だったという。

和楓(わふう)の独吟や、大薩摩とくると、声は劇場をつきぬけ、表通りを越えて、向こう側の芝居茶屋の奥座敷まで聞こえたという。体格がよくて、大兵(たいひょう)肥満だった。それだけに、声に深みがあって、腹に響く。オペラでいえば、最高のバリトンだったらしい。
当時の劇場建築は鉄筋コンクリ-トではないし、木戸は開けっ放し、大通りにしても狭かったから、前の劇場の長唄が聞こえても不思議ではないが、それでも和楓(わふう)の美声が聞こえては、向い側の役者の芝居もやりにくかったに違いない。

芸は日本一、性格のわるさも日本一。晩年、落魄したが、ずっと後輩の和風(わふう)たちが丁重に挨拶しても、返事もせず、ギロリと一瞥をくれるだけ。
傲岸不遜をきわめていた。

ある日、両国に花火を見に行った。
でかい図体(づうたい)に浴衣をひっかけたまま、座敷に大あぐら。
そこに、団十郎(九代目)の妻が通りかかった。
「まるで、破落戸(ごろつき)だねえ」
といったとか。和楓(わふう)はすかさず、
「なんでえ、河原乞食のくせしやがって」
とやり返した。

やがて、和楓(わふう)は大歌舞伎から去った。その後、流転をつづけて、舞い戻ったが、最後まで傲岸な人間だったらしい。大正五年に亡くなっている。

こんなエピソ-ドを、少年の頃、母から聞いた。
母は三味線をやっていて和風、佐吉を尊敬していたので、見たこともない和楓(わふう)のことも噂に聞いていたのだろう。
芸術家にもいろいろな人がいる。私は和楓(わふう)のような人に出会うことがなくてよかった。