戦前の浅草オペラに熱中したペラゴロたちの眼には、「茶色の毛をつけた日本人たち大勢の顔やからだや仕草」はエグゾティックに見えたにちがいない。
だが、戦後、日本のオペラをささえてきた人々は、いつも山崎 清のような指摘にたえながら、それぞれが自分の信じる道を歩みつづけてきたはずである。
たとえば、50回をむかえた「新春オペラ・コンサート」は、こうした批判とはかかわりなく日本人が到達した結果とみていい。むろん、日本人は『トスカ』のアリアで、パヴァロッテイ、ドミンゴ、カレーラスにおよばない。しかし、そうした比較は、やがて無意味なものになる。
これは、別の領域でもおなじことなのだ。たとえば、現在の翻訳が、明治、大正の翻訳家の仕事とは比較にならないほど高度なものになっていることを見ればよい。
私たちのミュージカルが、ブロードウェイの絢爛をもたないとしても、少しも恥じることはない。あえていえば、一部の人たちはすでに才能において劣ることはない。
すでに、私たちのディーヴァたちの顔やからだや仕草が、イタリア・オペラとはそれほど異質なものとはいえなくなっている。
NHKの「新春オペラ・コンサート」を見て、考えたこと。