NHKの「新春オペラ・コンサート」を見た。
もう、40年も昔のことだが・・・イタリア歌劇団の来日公演で、『フィガロの結婚』が上演された。
これを見た山崎 清博士が書いている。
イタリアのオペラ歌手たちの間にはさまって、幾人かの日本人歌手が出場しているのだが、からだの貧弱なのは、いたしかたないとしても、あの顔――。なんという顔だ。見物席の日本人は、ぞーっとするのである。
山崎 清は、人類学、とくに頭蓋計測から発展した歯科学における「顔」の研究の専門家だった。随筆家としても知られている。
博士の気に入らないのは、オペラ歌手としての才能の比較ではなかった。
イタリア人に真似したつもりか、茶色の毛をつけた日本人の青年男女のふんしている村人たち大勢の顔やからだや仕草が、イタリア・オペラとはまったく異質なものなのだ。
たしかに、山崎 清の指摘するとおりに違いない。私も、翻訳劇を演出してきたので、こういう指摘には反論できない。
だが、昔からこういう論理はくりかえされてきたのだ。明治初年の文明開化と、それに対する『千紫万紅』などの日本主義の論客の批判や、芝居の世界でも、島村 抱月の誤訳を徹底的に批判した『八当集』の筆者などを思い出せばよい。
むしろ、この問題は人種的な違い、容貌、体格、肢体、挙措動作の違いが、「見物席の日本人の内面を、ぞーっとさせるものかどうか」ということにある。
(つづく)