ギュンタ-・グラスが、戦時中、17歳で、ナチス親衛隊に編入されたことを告白したとき、さまざまな批判にさらされた。
私は、最近のドイツ文学にうといし、ギュンタ-・グラスのいい読者ではなかった。それに、批判できる立場でもなかったのでしばらく考え続けてきただけである。
私は、17歳のギュンタ-・グラスが、ナチス親衛隊に編入されたことを誰が責めることができるのか、と考える。しかも、実際に戦争を知らない人々が。
そして、ギュンタ-・グラスをとらえつづけたものは、自分ではどうしようもなくナチス親衛隊に編入されたことに対する恥辱感だったと思うようになった。
これは、彼の短いエッセイ、「羞恥と恥辱」(1989年)を読んだせいもある。
彼は、このなかで、戦争によるポ-ランドの悲惨な運命を語りながら、
私たちが50年後の今日、ポ-ランドの苦しみとドイツの恥辱を思い返すとき、私たちがどれほど厳しく罰せられたとしても――そして時が過ぎ去ったにもかかわらず、罰が軽減されることはなかったが――語ることで払いきれないこの滓のような責任は、いつまでもたっぷり残る。そして新たな努力の結果、ある日、私たちの責任が片づいたとしても、羞恥は残るだろう。
私は、このギュンタ-・グラスを信頼する。
それだけでいいのだ。