記憶について。
記憶をつかさどっているのは海馬という部分。脳内の神経ネットワ-クに、シナプスという結合部があって、ある刺激に大して反応しやすくなった状態が一定期間つづくのが記憶の基本をなす、という。
年老いて記憶がわるくなるのは、記憶を引き出す海馬の部分に障害が出るからだ、という。
驚異的な記憶能力をもつ男性がいて、本の1ペ-ジを10秒で読み、自分の読んだ1万2千冊のすべてを記憶しているという。ただし、これは「サヴァン症候群」という病気で、おぼえたことを総合する抽象的な思考ができない。
若くして天才的な指揮者として活躍しながら、ウィルス性の疾患によって海馬が破壊され、記憶がわずか15秒しかつづかない音楽家のドキュメントをBBCで見た。
この人を知ったとき、人間としてもっとも悲惨な状況におかれていると思った。たとえば、自分の思考に異常があると自覚して、自殺を考えたとしても、その15秒後には、そう考えたことさえも忘れてしまうのだから。
ピアノを演奏する能力は残っていて、実際にピアノを演奏するのだが、その瞬間は何を弾いているのかわかっても、数小節先を弾くときには、自分が何を演奏しているのか忘れている。
N氏はこれほどおそろしいドキュメントを見たことがなかった。
N氏にしても、けっこうたくさん本を読んできた。しかし、それは読んだという記憶があるだけで、どのペ-ジに何が書いてあったのか、ほとんどおぼえていない。だから、何度もくり返して読み直したり、まるではじめて読んだような感動をおぼえたりする。
N氏はごく平凡な記憶力しかもたなかったことを感謝しなければならないだろう。
誰に?
自分の海馬に。