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父は昭和45年(1970)に亡くなったのだが、父が危篤に陥った夜に、私はある座談会で、植草 甚一、五木 寛之に会っていた。私が司会したのだが、この座談会は、植草さんの『ワンダ-植草 甚一ランド』に載っている。このときの司会は、私としてはうまくいかなかったのだが、植草さん、五木さんの話はおもしろかった。
このときのことは、五木 寛之も書いているし、私ものちに「五木寛之論」で触れている。
座談会を終えて、すぐに父のもとに駆けつけたが、すでにこの世の人ではなかった。

この日、三島 由紀夫が市ヶ谷で自裁するという事件が起こっていた。
その直後に、当時、週刊読書人の編集者だった森 詠(今は作家になっている)から、至急、三島 由紀夫・追悼を書いてほしいと依頼されたのだった。
私は三島 由紀夫の行動に衝撃を受けていたので、その晩までに書くと約束した。
しかし、父の通夜のさなかに、三島 由紀夫の追悼など書けるはずがなかった。

締め切りの時間はすぎている。私は森 詠に電話で、原稿は書けそうもない、と詫びた。父が亡くなったことは伏せていた。しかし、森 詠は、すでに大日本印刷の校正室に入っていた。
森 詠としてもここにきて別の原稿にさしかえたり、ほかの執筆者に原稿を頼むことは不可能だった。私もそれは承知していたが、病院から父の遺体を移し、親族や知人に電話や電報で知らせ、葬儀の手配や、通夜にきてくれた人々に挨拶するという状況では、まったく書けない。何かを考えられる状態ではなかった。
とにかく明日の早朝、大宮まで原稿をとりにきてほしい、と森 詠に頼んだ。

何もかもごった返していた。
つぎつぎに弔問に訪れた人々に挨拶をする。その合間をみては机に向かって、ほんの二、三行、原稿を書いては、また弔問の人々に挨拶したり、読経、精進の手配、親族や知人に電話をしたり。ときどき柩の前から離れては書きつづけた。
父を失った悲しみと、三島 由紀夫の自裁というショックで動揺していたため、自分でも何を書いているのかわからないくらいだった。

翌朝、6時頃、約束通り、大宮で森 詠に原稿をわたした。森 詠はその足で大日本印刷に戻った。そして、予定していた原稿を私のエッセイに差し替えたのだった。
このときの私の印象が彼の作品に書きとめられている。私は憔悴しきっていたという。森 詠は私が三島 由紀夫の死に激甚なショックを受けたと思ったらしい。
たしかに、ひどいショックを受けていたが、別な要因が作用していたことは森 詠も気がつかなかった。父を失ったことは、私個人にかかわることだったから。

翌日、大新聞も週刊誌もいっせいに三島 由紀夫の特集を組んで、多数の人が意見を発表していた。「週刊読書人」の発行は事件の1週間後だったが、作家の反応としては、私の文章はもっとも早いものの一つだったと思う。
私としては、自分が書かなければならないと思ったことだけを書いたにすぎない。しかし、私のエッセイが出たあと、おなじように三島 由紀夫の事件にふれた本多 秋五、澁澤 龍彦、平岡 正明たちが、それぞれ私の文章に言及していた。(ただし、澁澤 龍彦は、後でその部分を削っている。)

三島 由紀夫と面識はあったが、親しくはなかった。しかし、彼の死はその後も文学的な主題として私の内面に深くきざまれている。