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私の父、昌夫は明治32年(1899)、浅草、田原町で生まれた。
チャキチャキの江戸ッ子だが、9歳からイギリス人の家庭でそだてられた。江戸ッ子のくせに、19世紀のイギリスふうに倫理的で、堅苦しい朴念仁で、まったくの無芸。まるっきり社交的ではなかった。
当然、英語ができたので、戦時中に石油公団につとめた以外は、外国系の商社につとめた。戦後、ピットマン速記を使ったステノグラファ-は、東京でもわずか二人しかいなかった。父はその一人だった。
ほかに、フランス語もある程度まで堪能だった。戦争中に、フランス語のブラッシアップのために、「慶応」で講義していた串田 孫一先生のクラスに通っていた。串田さんの日記に、一か所だが父のことが出てくる。ほかに誰も出席していない教室に、年長の生徒がひとりだけ出席しているので、串田さんもやむなく講義したらしい。
昌夫は、終生、串田さんに感謝していた。
(つづく)