最初のキスなんて、ちっともロマンティックじゃなかったわ、と彼女はいった。
空襲の被害はうけたが、その付近は焼け残ったらしく、牛込のその界隈には屋敷がいくつか並んでいた。その屋敷町の裏側の細い路地に入ると、片側はセメントの塀がつづいていた。この路地の先に、旧陸軍の練兵場があって、木々の繁みの間から小さな丘になる。戦後は払い下げ用地に指定されていたが、まだ放置されたままで、街灯もなく、暗闇の草むらや木立の影に若い恋人たちがまぎれ込むのにかっこうの場所だった。
暗がりを歩いてゆくと、雑草の窪みにぼうっと白い肌をはだけた女の上に黒い影が押しかぶさっていたりする。誰もが人目につかない場所をもとめてやってくるようだった。
木立のなかで、それまで抑えていた衝動につき動かされるように、いきなり腕をのばして康子の肩を引き寄せた。
「だめよ、こんなところで」
康子はあわててもがいた。しかし、はげしいいきおいで抱きしめられると、もう抵抗することができなくなった。あたたかく濡れた唇が、康子の唇にふれてきた。
そのとき、康子は眼を閉じていた。身体じゅうの神経がざわめいて、おののくような感覚が全身に走った。
キスがこんなになまなましいものだとは、このときまで知らなかった。
ただ、木陰で不意に抱き寄せられたため、木に背中を押しつけたまま不自然な姿勢になっていた。康子は、そのまま少しづつ背中ごとからだを落とした。
根元の草むらにずるずる腰を落としながら、自分から彼の舌を吸っていた。男は草の上にやわらかく康子を押し倒すと、自分も横になって腕にかかえ込み、はげしい息づかいで唇を重ねていた。
彼女は闇のなかで遠く新宿の空が明るく輝いていたことしかおぼえていなかった。