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奥野 他見男が湯河原に行った理由は、彼が作家として一種のデッドエンドを意識していたことにある。

「既に己(お)れは箱根を知り、修善寺を知り、然して遙か伊東温泉まで行った者が、近くの湯河原に行ったことが無いとは何んだか自分の手落ちらしく思はれ出した。」
そこで、たちまち湯河原行きを決心する。(ここまで朝食前に書いている。)

国分津から電車、さらに軽便鉄道で湯河原に向かうのだが、「間ァ何んて汚い小さい汽車だらう、乃が一体汽車と云ふ名称を付けられる丈けの資格があるんだらうか、全(まる)で箱だ、否(いな)全で安永年間に出来た様な汽車だ。」と、作家は苦笑する。
湯河原に着いたのが午後7時頃。ここで、乗合の自動車に乗ると、以前、一度だけ紹介されたことのある「若くて而かも美しき女!」が同乗しているではないか。

その令嬢が泊まる宿屋にきめて、「今まで亀の背中に載ってゐた様な鈍い汽車に揺られてゐた」ような小説は、ようやく快調に展開する。しかし、ほんとうはここから作家はきゅうに表現を抑制しはじめる。

あらためて、『芳子さん』を読んで、この作家が非常な人気を得ていた理由が、いくぶんわかったような気がした。
作家が自分の生活を即時的に書く。身辺雑記なら別にめずらしくない。現代の作家ならブログという表現手段がある。だが、昭和初年に通俗小説を同時進行のかたちで書き進め、しかも執筆の経過を刻明に記録しているのはめずらしい。
このことは、当時の奥野 他見男の絶大な人気、流行作家に対する世人の関心の大きさを物語っているだろう。

佐々木 邦に十九世紀イギリスの少年小説の余香がひそむとすれば、奥野 他見男には江戸の滑稽本、たとえば十返舎 一九の『膝栗毛』などの流れ、さらには万延頃に流行した「はねだぶし」、文久の「はんよぶし」、明治の「世の中開化ぶし」などのエスプリが見られる。そのユーモアが、明治、大正の家庭小説と野合したもの、と見ていいかも知れない。

流行作家として読まれながら、今はまったく顧みられない作家を読む。何ひとつ得られるものはないが、作家の運命を考える。
(つづく)