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竹内 紀吉君の思い出を書いたが、そのなかで、語学の研修でフランスに行ったときの竹内君のことにふれた。
→「竹内 紀吉君のこと」
彼が日本に帰国するとなって、それまで会話らしい会話もかわさなかったポ-ランドのおばさまが、彼に別れのことばをかけてきたという。
「お互いに異国で勉強している身で、まして当時のポ-ランドは共産圏に組み込まれていたから、フランスを去ってしまえばお互いに二度と会う機会はない。共産主義国家では旅行もきびしく制限されていたし、いくら語学の研修であっても交遊関係まで見張られていたはずで、その女性の孤独の深さが想像できるのだが、竹内君も少し涙ぐんで別れを告げたに違いない。」
これを読んでくれた人からいわれた。
「いくら、当時の共産主義国家でも、個人の、それも短期間の外国滞在まで、監視の眼を光らせるようなことはないでしょう」と。

1970年、大阪万博があった。このとき、現代美術の展示があって、当時の前衛画家、彫刻家の作品がならべられた。このとき、チェッコスロヴァキアの芸術家、スタニスラウ・フィルコも参加した。フィルコは一ヵ月ばかり日本に滞在したのだが、東京の美術館、美術展を見たいという希望をもっていた。政府から支給される滞在費はわずかで、ホテル代もなかった。どういうわけか、知人の知人の紹介で、スタニスラウ/マリ-ア・フィルコ夫妻が私の自宅に逗留することになった。
私はしがないもの書きで、大学で講義しながら通俗小説を書きとばして、その収入でちっぽけな劇団をひきいて芝居を演出していた。そんな生活をしていたが、外国の芸術家に寝室を提供するくらいの余裕はあった。
フィルコはニュ-ヨ-クの個展で成功していたため、大阪万博にはチェッコスロヴァキア代表に選ばれたのだった。当時の私は、フィルコのことを何も知らなかったが、このときの交遊から、現代美術の世界や、画廊について知ることになった。

私が驚いたのは・・・フィルコたちが、毎日、チェッコ大使館に当日の行動予定を通告したことだった。通告する義務があったらしい。その報告で、大使館員がそれとなくふたりの行き先に出むいて、誰に会ったか、どういう会話をかわしたか、監視するようだった。
宿泊先の私のことも調べたらしい。
ある日、私のところに帰ってきたフィルコは、少し表情が硬くなっていた。大使館の調査で、私がミステリ-を書いたり、ポルノも書くような「反動的な」作家と知ったらしい。そのようすから、私のことをいろいろ訊かれたらしい。

数日後、フィルコ夫妻は帰国することになった。私は、横浜港まで送って行った。

当時の共産主義国家は個人の旅行をきびしく制限していた。まして短期間であっても外国滞在となれば、当局が監視の眼を光らせないはずがない。

竹内 紀吉君に別れのことばをかけてきたポ-ランドのおばさまも、おそらく大使館に報告していたはずで、私が「その女性の孤独の深さが想像できる」と書いたのは誤りではないだろう。