私たちは、なぜ信仰をもつのか。
とてもむずかしい問題で、私には答えられない。
王 菲(フェイ・ウォン)がロサンジェルスで、キリスト教に改宗したらしいというニュ-ス(「華人週報」06.8.31)を知ったとき、不意に私の内面にこういう問いが浮かびあがってきたのは自然だと思う。
フェイ・ウォンは世界的なポップ・ア-ティストだが、出産をひかえて芸能活動を休止していた。産後、夫の李 亜鵬、新生児(女の子)、前夫とのあいだに生まれた小竇竇といっしょにアメリカで生活しているが、その理由についてはここでふれる必要はない。
ただ、人の子の親としての苦しみがかかわっていると想像していい。
フェイ・ウォンは熱心な信者として毎日、教会で神に祈りをささげているという。
それまで想像したこともないかたちで、人生の不条理に直面したとき、私たちはどうすればいいのか。
王 菲は何かにすがりつくようにして神に祈ったのかも知れない。
私はろくに信仰心もないもの書きだが、この王 菲を信じるひとり。
王 菲がなぜ信仰をもったのか。
むずかしい問題だが、私などが答えるべき性質のことではない。
少し別な問題だが、作家、ギュンタ-・グラスが、少年時代、ナチス親衛隊に所属していたことを、最近になって告白した。これがドイツでは大きな話題になって、作家が現在まで経歴を隠していながら、ナチに対してはげしい断罪をつづけてきた不誠実を非難されている。忌まわしい過去を伏せてきた作家なのだから、ノ-ベル賞を返上すべきだとか、新作の自伝の刊行の直前だっただけに、誠実な告白者の顔の下に阿世の徒のみにくい顔を隠しているといった非難が渦巻いている。
ギュンタ-・グラスの告白について、私などが意見を述べるべきではない。私はただ、作家が人生の最後にのぞんで告白したかったものと考える。この告白の重さを誰が非難できるのか。私はこのギュンタ-・グラスを信じる。
判断停止と見るやつが出てくるだろうことは承知の上で、私はそう考える。