日本の音楽環境に登場したシュ-・ピンセイ、ダイヤオたちが、あれほどすばらしい才能を発揮しながら、ついに成功しなかった理由はいろいろあるだろう。日本語のむずかしさもある。だが、根本的に、たいして才能もない人たちがブロデュ-スしたり、舌ったるい作詞ばかり歌わせたことも、成功しなかった大きな要因だったと思う。
なにしろ、艾 敬(アイジン)に、70年代のつまらない日本ポップスをカバ-させるというセンスのない連中が、プロデュ-スしていたのだから。
日本語を使っても、台湾の林葉 亭の「SUBWAY」の「吹泡泡等尓」(玉置 浩二のカバ-)、曲で使われる「サヨナラ」というフレ-ズは少しも気にならなかった。おなじ1993年に出た香港の鄭 秀文の『快楽迷宮』、最初の曲が「Chotto等等」で、日本語の「ちょっと待って」というフレ-ズがくり返される。
Chotto mate yo
愛心尓不必一次盡傾
というフレ-ズがひどく耳ざわりだったことをおぼえている。
王 菲の「Separate Ways」が、アジア人による日本のポップスとしての最後の輝きだったと思う。
その後、「女子十二楽坊」が登場してきたが、あくまで美しい中国姑娘たちのみごとな中国楽器の演奏が成功したのであって、あえていえば、楊貴妃べにに蛾眉ひたいの美少女たちに、観衆がうっとりしただけのことだったろう。演奏された曲のほとんどはつまらないものばかりだった。
あれから十数年、日本のアジア・ポップスへの関心は消えた。香港返還を境に、誰もアジア・ポップスを聞かなくなった。
日本からアジア・ポップスが去ったのではない。アジアから日本ポップスが去ったのである。