戦争が終わって、9月上旬、占領軍が上陸してきた。
有楽町ではじめてアメリカ兵を見たが、兵士たちにまつわりつく若い女の子を二、三人見た。戦争が終わったばかりで、もんぺ姿だったり、やぼったいセ-タ-、スカ-トを着た女たちだった。敗戦直後の解放的だが、みじめな、屈辱的な風景のひとつ。
彼女たちは、その後すぐにパンパンとよばれるようになった。
パンパンガ-ルはあくまで金をかせぐために男と寝る街娼のこと。これと違って、もともとズベ公で、気に入った男にだけ、からだをまかせて、毎日、おもしろおかしく遊び暮らしている女がパンスケだった。自分でもスケちゃんと称していた。好きになった男がアメリカ兵だった場合は、オンリ-で、ほかの女たちより高級な存在のように思っていたらしい。おKちゃんもそのひとりだった。
戦時中は軍需工場の優秀な女子工員だったが、戦後、家業がまったくふるわなくなって、10月にはパンスケに転向して、その年(1945年)の暮れにオンリ-さんになった。私より五、六歳、年上の女性だったが、その変身ぶりに驚かされた。
こうした女たちは日本じゅうどこにでも発生して、パンパンガ-ルと呼ばれることになる。
パンパンガ-ルは街娼だが、それまでの娼婦とは違った考えをもっていた。おKちゃんはいう。いやな戦争が終わった。戦争のおかげで、私なんかさんざん苦労してきた。戦争責任なんか私たちにはない。せっかく自由になったのだから、これからは世間をおもしろおかしく生きて行くほうがいい。敗戦の混乱のなかで、まともな仕事があるわけではない。だから、自分の気に入った男にからだをまかせて、お小遣いをもらう。だから、金をもらうためにからだを売るのとは違う。
パンパンガ-ルにせよ、パンスケにせよ、共通していたのは、戦前からつづいていた公娼に対する反感なり侮蔑だった。なぜなら、特定の家(娼家)に囲われ、与えられた食事を黙って食べ、衣装を借りて、男たちを迎える女たちこそ、まぎれもないパンパンで、しかも前借でしばられたまま男たちに身をまかせるのだから、最下等な淫売ということになる。
逆に、戦後ようやく復興した吉原の女たちの論理はまったく違うものだった。
彼女たちは、ノライヌのように街から街をうろついて男の誘いを待ちかまえるみじめな女たちと違って、それなりにきちんとした居住空間をもっていて、独立した暮らしをしている。この社会に落ちたのは境遇のせいで、春をひさぐのは生活の方便であって、いつかはまともな暮らしに戻ろうと思っている。だから、パンパンガ-ルやパンスケなどは女のクズなのだ。
こうした考えかたは、たとえば吉原は日本のシマ、日本人のシマなのだという、いわば誇りがささえていた。そのうしろには、「降るアメリカに袖は濡らさじ」という考えが生きていた。
戦後の吉原の女でパンパンになった女はいたが、パンパンから吉原の女になった女はほとんどいない、といわれている。
フェミニストたちは性差別を考える。私は、差別のなかの差別を考える。