私は書いたのだった。
「今では誰も思い出すことのない俳優、女優たちにふれるのは、それぞれの時代の俳優、女優たちの姿やおもざしをなつかしむためではない。それぞれが、時代に生きて、いずれも『時分の花』としてときめいていた事実を忘れないためである。」(「ルイ・ジュヴェ」第四部第二章)
この「時分の花」が、『花伝書』からのものであることはいうまでもない。
女優だけに関心をもったわけではない。主役のスタ-よりもワキで、つよい存在感、あるいはその役者しかもっていない魅力を見せる連中がいた。
いつも眼をギョロギョロさせながら、ドタドタ歩いていたミッシャ・アウア。(父が有名な音楽家で、ほんとうに「不肖の子」だった。)
いつもいつもトボけたような顔をしていたエドワ-ト・エヴァレット・ホ-トン。(若い頃は、ブロ-ドウェイの二枚目だった。)
天性の悪声というか、頭のテッペンからひんがら声を出していたアンデイ・デヴァイン。
老齢で、ひどく痩せこけていたが、いつも気品のある役をやっていたハリ-・ダヴェンポ-ト。
ふてぶてしい悪役ならワ-ド・ボンド。(晩年、ジョン・フォ-ドの映画では、いい「役」、たとえば勇敢な軍人役をやっている。)
フランス映画では、いつもチンケな悪党、よくいって下層社会の庶民といったレイモン・エイモス。
こういう「さしたることもない」役者たちにつよい関心をもちつづけてきたが、こうした関心が私の批評をささえているような気がしている。
(『ルイ・ジュヴェ』(第一部第十二章)
すでに過ぎ去った時代の俳優や女優たちに、若き日の私が見たもの、あるいは期待したものを考えると、やはり感慨なきを得ない。