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哲学者のベルグソンを日本人が訪問した。彼の著作を翻訳したいという。
ベルグソンは喜ばなかった。
「私は日本語を知らないので、あなたの翻訳が私の思想をほんとうにつたえているかどうかわからない」
彼はそう答えた。
このエピソ-ドは、いつまでも私の心に残った。

ベルグソンには、無意識にせよ、日本人の理解する「ベルグソン」と自分は違うのだという思いがあったと思われる。そして、これも無意識にせよ、日本人に対する警戒がはたらいたのではなかったか。
それはそうだろう。私のところにホッテントット人がやってきて、きみの『ルイ・ジュヴェ』を訳したいといわれるようなものだから。私はきっと卒倒するだろう。
婉曲なかたちで、「日本人に私の思想がわかるのだろうか」と疑問を投げかけたはずである。

ただ、こういうふうにも考える。
「日本人に私の思想がわかるのだろうか」といういいかたには、無意識にせよ、日本人に対する否定が隠れているのではないか。

たとえば、この論理は、サルトルのいう「飢えた子どもの前で文学は可能か」という論理に、どこかでむすびついている。
大岡 玲が、このサルトルのことばにふれて、
「私には問いかけの立脚点がよく見えない感じがするし、はるか高みから下界をみおろしているような不遜な臭気がただよう気がして、どうも好きになれない」
という。
私がベルグソンのいいかたに感じるものも、これに近い。

もう一つ、ここから翻訳という仕事について自分なりに考えることができる。

むずかしい問題なので、私はまだ考えつづけているのだが。