パリ。深夜にタクシ-に乗った。
初老の運転手が私を旅行者と見て話しかけてきたと思う。どこからきたのか、とか、パリにきてどのくらいになるのか、といった、ごくあたりさわりのない話だった。
そのうちに、私はこの運転手が、スラヴ系の出身者らしいことに気がついた。
しばらく話をしているうちに、どういうことからそんな話題が出てきたのかもうおぼえていないのだが、彼の境遇を聞かされることになった。ロシア革命当時、貴族の子弟として士官学校に入っていた彼は、赤軍と戦って遠くシベリアで転戦した。
自分の部隊が壊滅したため、必死に戦線を離脱して、難民としてパリに落ちのびたという。
彼の口から、思いがけない人の名前が出た。
ベルジャ-エフ。
士官学校で彼の講演を聞いてから、個人的に親しくなったという。
私はベルジャ-エフを読んではいたが、おもにドストエフスキ-に関しての著作だけで、ほかのものはあまり知らなかった。それでも、『ドストエフスキ-論』を読んだことがある、といった。
そのときの彼の驚いた表情は、いまでもよくおぼえている。車をとめた。
小柄で、風采のあがらない、おまけに頭のわるそうな日本の若者が、ベルジャ-エフを読んでいる。信じられないことだったに違いない。
私のほうも、ロシアの元貴族がパリでタクシ-の運転手をやっていて、少年時代にベルジャ-エフと親しかった話を聞かされる、などとは想像もしなかった。
それから、ひとしきりベルジャ-エフの話になった。
いつか短編にしようと思っていたが、とうとう書かずじまいだった。
メ-タ-をとめて話をしたのだが、別れぎわに私からタクシ-代をうけとらなかった。だから、旅行者と見てたくみにだます雲助ではなかった。
私にとってはパリの思い出のひとつ。