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この夏、毎晩、寝る前にモ-ロアを少しづつ読んでいた。みじかい1章を読むと、よく眠れるからだった。
しばらく読まなかったせいで、私のフランス語はすっかりサビついてしまった。外国語を身につける根気や熱意が欠けていたのだから仕方がない。もつと努力していたら、もう少しフランス文学に精通することができたかも知れない。

私はある大学で語学を教えていた。たまたま研究室でフランス語専門の先生たちと雑談していたとき、
「中田先生はフランスの文学では何をお読みですか」
と聞かれた。
「アプレ・ラ・ゲ-ルの小説はわりに読んだつもりですが」
と答えると、みんなが笑った。
笑われても仕方がないと思った。だが、フランス語を専門にしているという連中が、何を読んできたのか、という思いはあった。
きみたちはアメリカ文学では何を読みましたか、と反問すればよかった。
しかし、私はだまっていた。
きみたちが、サルトルや、ボ-ヴォワ-ルを読んできた時期に、私はジャック・リヴィエ-ル、バンジャマン・クレミュ-、アンドレ・ビ-、ラモン・フェルナンデス、ジュリアン・バンダを読んできたのだ。
きみたちは、一度でもモ-リス・デコブラやジツプを読んだことがあるのか。おそらくシムノンさえ読んだことはないだろう。
その後、私は研究室ではいっさいフランス文学の話をしなかった。

大学の紀要に、一つか二つ、研究論文を発表するぐらい誰でもできる。だが、自分では文学にいちばん近いと思っている仕事が、じつは文学とはあまり関係のない仕事なのだ。文学の研究者には、文学とはあまり関係のない仕事をしている連中が多い。