私にかぎらず、40年前の自分の声を聞くような経験はめったにないことだろう。
思いがけず自分の声を聞いて驚いた。というより、想像もしなかった経験だったことに混乱したといっていい。
“The Same River Twice”
それにしても、なんという皮肉な題名だろう!
私がこれを聞いたときの感想は、われながら皮肉なものだった。
40年前の自分の声を聞いた。これが、いちばんの驚きだった。現在の私の声とはまるで違っている。
さすがに声はわかわかしかった。しかし、これがおれの声なのか。
自分でも中田 耕治として知っている誰かが、いかにも翻訳家にふさわしい「声」でしゃべっている。えっ、きみが中田 耕治なのか。こんなエラそうなことをしゃべっているのが、まさか、おれじゃないよナ。
「解説」の内容はたいしたものではない。なんだ、こんな程度の「解説」しかできなかったのか。可哀そうに。
そのくせ、まっさきに感じたのは、「中田 耕治」がなんとか自分の思い、自分の考えていることをリスナ-につたえようとしている、ということだった。
聞いているうちに、その頃の私のことがつぎからつぎによみがえってきた。「中田 耕治」が手がけた芝居のこと、小さな劇団をひきいて、ただもう稽古に明け暮れていたこと、親しかった友人たち、徹夜でテープを聞いてメモをとり、NHKのスタジオに向かったことなどが、堰をきったように押し寄せてきた。
なつかしさとは別の感情だった。むしろ恥ずかしさが胸の底にこみあげてきた。
まるっきり無名ではなかったが、中田 耕治は自分がほんとうにやりたい仕事も見つからず、つぎからつぎに安易な仕事ばかりをこなしていた。この「解説」にしても、けっこう苦労はしたが、やはり安易な仕事の一つだった。
自分の声が魅力的に響く人はいい。しかし、自分の声にどうも魅力がないことに気がつく。聴いていてはずかしい。だから新任の講師が、はじめて教室で学生を相手に緊張しながら講義している、そんな感じだった。それが可愛らしい。
普通の講演とか大学や、俳優養成所の生徒を相手の講義と違って、外国の言語によるドラマの解説で、しかもミステリ-というしゃべりにくい部分で、なんとかおもしろさをわかってもらいたい、という気もちがよく出ていた。そういう部分は、あえてしゃべろうとしてもなかなか言葉にならない。そのあたりにけなげさがあった。自分でいうのも、へんな話だが。
(つづく)
――(「未知の読者へ」No.7)