私の「文章講座」は、二年たらずで中絶した。
それまで、翻訳を勉強している人たちといっしょにさまざまなテキストを読んできた。結果として、かなり多数の人たちが私のクラスから巣立って行った。私は英語を教えたのではない。翻訳を教えたわけでもない。翻訳をする姿勢について、いつもみなさんといっしょに考えてきたのだった。
「文章講座」のクラスも文章の書きかたを教える場所ではなかった。ましてや、こちたき文章学を論じるつもりもなかった。文章を書くということが(きみや私にとって)どういうことなのか。そのあたりのことから、まず考えてみよう。
「あなたも文章が書ける」式の講座や、いわゆる「文章作法」などを期待してもらっては困る。テキストに、その日のストレ-ト・ニュ-ズの原稿を選ぶかも知れないし、コラムと呼ばれる記事を選ぶかも知れない。
このとき私の視野にあったのは、およそ時代遅れな候文、祝賀、吊祭文から、現在の新進作家の作品まで。ときにはホラ-・ビデオを見たり、落語を聞きに行ったり。とにかく自由に講義をつづけて行く。
もともと教育者になりたいと思ったことがなかった。教えることはきらいではない。それぞれの人の内奥に秘められている能力をいち早く見抜いて、その才能の所在を指摘する。それが私のやってきた仕事だった。
昔の映画だが、「俳優入門」(マルク・アレグレ監督/1938年)で、ルイ・ジュヴェが、多数の若い俳優や女優のたまごたちを相手に、あざやかに的確な意見を述べ、みごとなヒントをあたえてゆく。(シナリオはアンリ・ジャンソンだが、こういう部分は、シナリオにはなく、すべて実際にルイ・ジュヴェが演じてみせたもの。)
ジュヴェのような指導ができたら、というのが私のひそかな願いだった。
この講座は、現在の『中田 耕治・現代文学を語る』という講座に発展している。
(注)この「文章講座」に出席していた人のなかで、作家になったひとりに、森山茂里がいる。近作は『夫婦坂』。とてもいい時代小説。