大学を卒業する直前のこと、ある作家からお小遣いを頂いた。
当時の私は友人の椎野 英之の頼みで、雑誌「演劇」の編集を手つだっていた。
身分は学生だが、貧乏なもの書きだった。注文があれば、ラジオドラマや、コントと称する読みもの、雑文などを書きながら、アルバイトで編集者、というより「パシリ」で、いろいろな作家の原稿をもらいに行く。おまけに、俳優養成所で講義をつづけている。自分でもわけのわからない仕事をつづけていた。
しばらくして岸田 国士編で、演劇書を作ることになった。実際の編集は椎野がやったのだが、末尾に演劇史の年表をつけることになって私が起用された。
演劇史に関心がなかった。やむを得ず、ギリシャ、ロ-マから代表的な戯曲を読みはじめて、なんとか年表らしいものを作った。
岸田 国士が別荘でその年表を校閲することになった。
軽井沢に行くことがきまったとき、編集室に立ち寄った作家にはじめて紹介された。そのときの話で、私が上野から軽井沢まで同行することになった。
帰り際に、作家はさりげなく紙幣を手にして、
「少ないけれど、とっておいてくれたまえ」
といった。
私はほんとうに驚いた。戦後すぐから批評めいたものを書いていたので一部では知られていたにせよ、その作家が私の書いたものを読んだはずはない。原稿料で生活していたが、先輩の作家、それも初対面の人から金銭を頂いたことはなかった。私は、仕事で伺うのだから、頂戴する筋あいのものではないとことわった。しかし、岸田 国士はにこやかに微笑して、
「気にしなくていいんだよ」
どうやら軽井沢に行く旅費もおぼつかないと察してくれたのだろう。ありがたく頂戴することにした。私は黙って頭をさげた。
この軽井沢行きには、もう一つ、大学の卒業をひかえたおなじクラスの学生たちの<修学旅行>が重なっていた。あまり教室に出なかったため、親しい仲間もいなかった私にとっては、この<修学旅行>は楽しい思い出になった。
もっとも、その晩泊まった宿屋でも、ほかの学生たちといっしょに放歌高吟することもなく、深夜まで、ひとり年表作りを続けていたのだから、最後の最後まで仲間はずれだった。
その晩、年表にとりあげた芝居の一節を思い出す。
「お互いに一生おぼえていよう。ぼくはきみを忘れない。きみもぼくをわすれてはいけないよ。ぼくたちはもう二度と会えないんだ。でも、ふたりは忘れやしない。ぼくのハイデルベルグへのあこがれはきみへのあこがれだった・・・そして、とうとうまたきみに会えたんだ」
岸田 国士は、翌年、『どん底』の演出中に劇場で倒れて、そのまま亡くなった。