キリスト教について何も知らない。しかし、ルネサンスを勉強していたので、いちおうキリスト教についても勉強した。
私が好きなイエスをあげるとすれば、
パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。イエスは彼らに言われた。「あなた方は夕方になると、『空がまっかだから、晴れだ』と言い、「また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。
そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
(マタイ伝 16章1~4節)
この一節がいちばん好きなのだ。
政治的に仲がよくないパリサイ人とサドカイ人が、共通の敵であるイエスに対して、天からのしるしを見せるように、と迫った。
神が生きているなら、かならず「しるし」があらわれる。だから見せてくれ、といったのだろう。
この一節のイエスを想像するだけで、パリサイ人やサドカイ人の反応まで見えてくるような気がする。
私は聖書学者ではないので、神学的なことに関心はない。しかし、キリスト教を知らなくても、いろいろと想像することはできる。
まず、イエスのみごとなダイアレクティックス(反論)におどろかされる。「時のしるしを見分けることができない人々」に対する、あざやかな否定。
ヨナのしるしというのは、クジラの腹に飲み込まれた予言者ヨナが三日たって陸に吐き出されたという旧約聖書の物語をさす。そのくらいは私も知っている。
ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられない、ということばは、処刑後のイエス復活が「天からのしるし」であることになる。
そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
このエンディングはすごい。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。このイエスの姿を想像していると、物語のみごとな終わりに驚嘆する。
こんなことしか考えないのだから、私がキリスト教徒になれるはずもない。