私の少年時代は、世の中、のんびりしたものだった。
どこの町に行っても、たいていガキ大将というのがいて、これが(学校の成績は別として)まことに才知にあふれたヒ-ロ-ときまっていた。
子分(といっても小学生。せいぜい中学二年まで)をひきつれて、紙芝居を見に近隣の町に出かけて、(あとで自分のテリトリ-にまわってくる)、見物場所の奪いあいから喧嘩になったりする。その喧嘩をおさめるのが、これまた別の町のガキ大将だったりするのだが、お互いに引き上げどきの駆け引きも心得ていた。
親たちも、わるい遊びをしたところでガキ大将を睨みつけるだけで、むしろ、あの子が大将なら遊んでも大丈夫、と寛容なものだった。というより、まるっきり放任していた。ガキ大将のほうも、まとめてよその子の面倒を見るのだから、しっかり責任をとらなければいけない、と心得ていた。
遊ぶといっても悪いことはしない。肥後守(ひごのかみ/小刀)ぐらいはポケットにしのばせているが、これは竹を切ったり、塀に相合い傘を彫りつけたり。ませたヤツは、旭日章に棒一本。どこの厠(かわや)にも描いてあったものである。
子どもたちは横町の路地でパッタ(メンコ)かベエ、三、四人なら鬼ごっこ、女の子にまじってナワ飛び、セッセッセ。コ~トロコトロ。遊びにあきるとゾロゾロと雁首そろえて、近くの川原に出かけたり、ヘビ、ムシ、オタマジャクシをつかまえる。
のどが乾けば、池のほとりに片膝をつき、掌で水面のゴミをサッとはらって、すかさず水をしゃくって飲む。手練の早業。活動写真で嵐 寛寿郎(アラカン)がやったとかで、ガキ大将がやってみせる。幼い子どもが真似しても、袖口が濡れるだけだった。
腹がへってくる。ガキ大将が、一銭か二銭、子分から銅貨をかきあつめて、焼き芋か煎餅、ときには子どもめあての屋台のドンド焼きなぞ買い込んで、みんなに分配する。
最近の子どもたちのように、学校から帰るなり、テレビにかじりついてゲ-ムに熱中するなんてことはなかった。コリントゲ-ムが出てきたときは、たいへんなゲ-ムが「発明」されたものだと思った。
少子化問題など、この世のどこにもなかった時代の話。